雑司が谷七福神文化財めぐり
自由学園明日館
豊島区西池袋2丁目31-3(月曜日休館)
開館 午前10時より・見学料400~600円
平成9年 国の重要文化財(建造物)に指定
羽仁吉一、とも子夫妻創立の自由学園校舎として、大正10(1921)年から昭和2(1927)年にかけて建設されました。設計士はアメリカの巨匠フランク・ロイド・ライト氏と遠藤新氏です。平成9(1997)年、国の重要文化財に指定され、約3年の歳月を費やして保存修理が行われました。中央棟、東西教育棟および道路南側に講堂があり、ライト氏がイメージしたウィスコンシンの大平原にある草原住宅のようなたたずまいが特徴となっています。
雑司が谷鬼子母神堂
豊島区雑司が谷3丁目15-20
御堂受付 午前9時~午後5時
平成28年 国の重要文化財(建造物)に指定
雑司ヶ谷鬼子母神堂は、永禄4(1561)年に清土(現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を天正6(1578)年に「稲荷の森」と呼ばれていた当地に、村人たちが堂宇を建て今日に至っています。寛永2(1625)年には社殿の造営が始まり、正保3(1646)年には宮殿が寄進されました。現在の鬼子母神堂は、手前から「拝殿・相の間・本殿」の3つの建物で構成される「権現造り」で、本殿は寛文4(1664)年に上棟され、開堂供養は寛文6(1666)年に行われたとの記録があります。拝殿と相の間は元禄13(1700)年に広島藩二代目藩主浅野光晟の王室満姫の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事しており、本殿の三方の妻を飾る梁や組物の彫刻には広島地方の社寺に用いられている様式が見られます。拝殿は江戸時代中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素なものに変えるなど、幕府による建築制限令への対応をうかがわせる特徴もみられ、これらのことから、江戸時代の大名家による社寺造営の実像を示す事例とされました。また、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建造物でもあることから、平成28年7月25日に重要文化財に指定されました。
法明寺梵鐘
豊島区南池袋3丁目18-19
開門 午前9時~午後5時
東京都重要文化財に指定
法明寺の梵鐘は、下縁に曲尺・算盤・升・天秤などの珍しい文様が描かれています。江戸時代から桜の名所として知られ、約700年の歴史を持つ寺院ですが、昭和20(1945)年、戦災により全山消失しました。しかし、昭和34(1959)年、四十七世一味日厚上人が本堂を再建、さらに昭和37(1962)年、客殿庫裡を竣工しました。昭和43(1968)年、四十八世一厚院日悠上人を中心に鐘楼並びに山門の復興も完了し、ほぼ寺内を旧に復しました。大晦日には除夜の鐘をつく人々で賑わいます。
雑司が谷宣教師館
豊島区雑司が谷1丁目25-5
開館 午前9時から
休館日 月曜日・第3日曜日・祝日の翌日・年末年始
平成11年 東京都有形文化財(建造物)に指定
雑司が谷旧宣教師館は、明治40(1907)年にアメリカ人宣教師ジョン・ムーディー・マッケーレブが自宅として建てたものです。マッケーレブは、昭和16(1941)年に帰国するまでの34年間をこの家で生活していました。19世紀末のアメリカ郊外住宅に多く用いられたシングル様式を基調とし、細部のデザインはカーペンターゴシック様式を用いています。建物の内部は1階・2階ともに3部屋がT字形に配置され、各3部屋とも暖炉が組み込まれ、壁の中で煙突につながっています。1階の西北部にポーチ付きの玄関を設け、北側に廊下及び主階段、南側にはサンルームとして用いる広縁があり、東側には補助階段がついています。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、都内でも数少ない明治期の宣教師館としては大変貴重なものとして平成11年3月3日、東京都指定有形文化財(「旧マッケーレブ邸」)になりました。
雑司が谷の歴史を見守る天然記念物
鬼子母神大門ケヤキ並木
豊島区雑司が谷3丁目16-1
公開日 通年
昭和15年 東京都の天然記念物に指定
都電荒川線「鬼子母神前」駅から広がる参道のケヤキ並木は、古いもので樹齢400年。東京都指定の天然記念物です。現在は若木を補いながら江戸の旧観維持に努めています。
鬼子母神公孫樹(おおいちょう)
豊島区雑司が谷3丁目15-20
法明寺鬼子母神堂境内
昭和31年 東京都の天然記念物に指定
境内に植えられている東京都指定天然記念物の大公孫樹(おおいちょう)は御神木であり、雄株の公孫樹です。高さは約33m、幹の周囲は約11m、樹齢約700年と言われ今も樹勢は止まることを知りません。
豊島区立 目白庭園〈赤鳥庵〉
目白庭園内の池の南側に建つ数寄屋造り「赤鳥庵」の名称は、大正7(1918)年にこの地で創刊された子供のための文芸雑誌「赤い鳥」にちなんだものです。雑誌「赤い鳥」は鈴木三重吉が主宰となって、芥川龍之介、有島武郎、北原白秋、西条八十ら、当時の著名な作家や詩人の献身的な協力のもとに我が国の児童文学の基礎を築きました。その後、昭和11(1936)年に廃刊となるまで、数々の名作とともに坪田譲治、新見南吉ら新たなる童話作家を世に送り出しました。その全盛期、赤い鳥社兼鈴木三重吉宅は、庭園の東側(現在の目白3-18)にありましたが、他にこの辺りの森の中の隠居家風の一軒家を事務所として借り、「赤鳥庵」と名付けていたとも伝えられています。なお「赤鳥庵」に飾られている額は、鈴木三重吉氏の長男、珊吉氏の筆によるものです。
豊島区目白3丁目20-18(入園料無料)
開館 午前9時~17時(7、8月は19時まで)
休園日 毎月第2・4月曜日(月曜が祝祭日の場合は翌日)および年末年始
千登世小橋
千登世橋は昭和7(1932)年に橋長28.0m、有効幅員18.2mの一径間鋼ヒンジアーチ橋で架設されました。この橋は明治通りと目白通りとの立体交差橋で都内でも土木価値の高い橋として「東京の著名橋」に指定されています。著名橋整備事業として、千登世小橋とともに親橋・高欄・橋側灯および橋詰空間など歴史的原型の保全を行い文化遺産継続の願いをこめて修景を施されています。
豊島区雑司が谷2丁目6(目白通り)
夏目漱石の墓所
夏目漱石は、日本の明治時代を代表する文学者であり、小説家、評論家として名を馳せました。1867年に江戸で生まれ、東京帝国大学で英文学を学びました。彼の作品は、社会の変革と個人の葛藤を鋭く描いたもので、多くの読者に感銘を与え続けています。代表作には『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『こころ』などがあり、特に『こころ』は、友情と裏切り、愛と罪のテーマを通して人間の心理を深く掘り下げた名作として知られています。また、漱石は独自のユーモアと風刺を持ち、読者に対する洞察力と共感を兼ね備えていました。彼の文学は、日本の近代文学の基礎を築き、今日でも多くの人々に愛されています。1916年に49歳で亡くなりましたが、その遺した作品と思想は、時を超えて読まれ続けています。
豊島区雑司が谷1丁目39-5
雑司が谷霊園内
一種十四 号一側三十九
豊島区空襲犠牲者哀悼の碑
昭和20(1945)年4月13日深夜から翌14日未明にかけて東京西北部一帯を襲った空襲は、豊島区の大半を焦土と化し、甚大な被害と深い悲しみをもたらしました。死者778名、負傷者2,523名、焼失家屋32,000戸にのぼる被害により罹災者の数は161,661名と、実に当時の人口の約7割におよびました。この空襲によって無念のうちに尊い命を失った数多くの犠牲者が、当時「根津山」と呼ばれたこの南池袋公園の一角において埋葬されました。先の戦争を通じ、空襲の犠牲者となった豊島区民の冥福を祈るとともに、この悲惨な事実を永く後世に伝え、二度と戦争による悲劇を繰り返さぬようにこの碑が建立されました。
豊島区南池袋2丁目21-1
南池袋公園内
開園時間 午前8時~午後10時